あけましておめでとうございます。
今年もお願いします!
っというわけで、弟坊主から新年会のご案内です。
日時:1月15日(日)11時法要開始
法要後、みなさんで会食です。
新しい年を迎えられた喜びをみなさんと一緒に味わいましょう!
ちなみに・・・
昨年3月に当山坊守が亡くなりました。
一般的に言うと喪中ということになるでしょうが、
私たちは喪に服すことはありません。
もともと喪に服すというのは、
家族・親族が亡くなったのに、慶事等の
派手なことへはあまり出席したくない、という
心情的な理由がよく言われていますが、
実はもう一つあるんです。
それは死を穢れとみなす古来からの民族慣習から
派生した考え方で、人が集まる行事に穢れをもった人が
出席すると、その穢れがうつってしまう、というものです。
人が亡くなって悲しい、というのならわかりますが、
この穢れというのはちょっとさみしい考え方ですよね。
さらに激しい言い方をしてしまうと、
いつまでも悲しんでいるのは、亡くなった方も
はたして喜ぶことでしょうか。
それよりも自分の死を縁として
残された私たちがその命の教えを日々の糧とした方が
きっとお浄土で喜ぶに違いありません。
そういった考えの下、私たちはいつも通り
新年会を開きたいと思います。
ぜひみなさんご参加くださいね。
今年もお願いします!
っというわけで、弟坊主から新年会のご案内です。
日時:1月15日(日)11時法要開始
法要後、みなさんで会食です。
新しい年を迎えられた喜びをみなさんと一緒に味わいましょう!
ちなみに・・・
昨年3月に当山坊守が亡くなりました。
一般的に言うと喪中ということになるでしょうが、
私たちは喪に服すことはありません。
もともと喪に服すというのは、
家族・親族が亡くなったのに、慶事等の
派手なことへはあまり出席したくない、という
心情的な理由がよく言われていますが、
実はもう一つあるんです。
それは死を穢れとみなす古来からの民族慣習から
派生した考え方で、人が集まる行事に穢れをもった人が
出席すると、その穢れがうつってしまう、というものです。
人が亡くなって悲しい、というのならわかりますが、
この穢れというのはちょっとさみしい考え方ですよね。
さらに激しい言い方をしてしまうと、
いつまでも悲しんでいるのは、亡くなった方も
はたして喜ぶことでしょうか。
それよりも自分の死を縁として
残された私たちがその命の教えを日々の糧とした方が
きっとお浄土で喜ぶに違いありません。
そういった考えの下、私たちはいつも通り
新年会を開きたいと思います。
ぜひみなさんご参加くださいね。